握ると悲鳴あげる黄色い鳥で笑ったこと一度もない

タイトルなが。笑いのツボがたまにズレてるかもと思うsibaです。

 

中学の時に家庭科の授業で子供について学ぶ単元の時に、近くの保育園へ行く軽い教育実習みたいなのがあった。

その前にまず園児と初めて会った時に、なんて言って声をかけるか、園児がケンカを始めたらどうするか、とかいろんなシチュが書かれたワークシートを埋める時間があったの。

各自で埋められたら周りの人と意見を交換しましょう、ってんで隣の人の回答見たらさ、

 

初めて会った園児になんて声をかけますか?

 

-僕と君、どちらが先に名乗る?

 

 

園児がケンカを始めたらどうしますか?

 

-参加する

 

って書かれてあって死ぬほど笑った。これ絶対文面じゃ面白くないけどまじで面白かったんだよね。この一件があって以来私の中でその人=面白いってのが固まってしまって、その人がなにしても1人で笑ってたな。元気かな。出来ればあの時のままでいてほしいものです。

 

 

 

んで、なんでブログ書き始めたか分かんないな。言いたいことは色々あるけどいざ文にしようとすると別にいいか、となる。

 

そうだ、この前書くと言って放置してたネタがあったな。書こうかな。

 

 

 

担当という制度について。

 

これさ、普通に誰が好きかを示すもの、だとしたら凄くシンプルで「アイドルの推し」の呼称ということで分かりやすくていいな、と思う。

けどたまにこの言葉に囚われすぎてる人がいるよね。好きだから担当、じゃなくて担当だから好きって、出てるテレビとか雑誌に全部反応しなきゃっていっぱいいっぱいになってる人。

なんでかなーと思う。担当だから好きでいなきゃ、なんて義務感を感じる時点でそれはもう好きじゃないさ。別の部分、好きでない所が多く見えてしまって、無理に好きであった過去を見ようとしてるだけでしょ。そんなことする必要はない。周りの目とか自分の立場やそこに名付けられた言葉とか関係なく、自分と推し、一対一で好きかそうでないか、でしょ。大切なのはさ。

だから最近はこの人も気になってる...ってのを後ろめたい感じで言うのは絶対おかしい。アイドルという仕事をしている人にとってその気持ちは絶対プラスじゃん。なのになんで自分でマイナスにしちゃうの、もったいないね。

 

担変え宣言も要らないと思う。担降りはツイッターやってるとしたら、言ってもらえれれば助かるところはあるけど、変わったところで、特に同じグループで変わったのなら別に言わんでも...ってカンジ。

 

私だって永遠タラチオさんとV6の2大推しと言ってるけど、シンさんの動画見てる時はシンさんが好きだし、最近は琵琶ちゃぷが来てる。今動画追ってるから。こんな風に私の好きなものの比重はその時々によって変わる。人間だからね。

 

◯◯担なのに他の人見ちゃう...◯◯担失格...みたいな発言ほんと意味わかんないよね。自分に呪いをかけすぎでしょ。感情は流動的なものなんだから、枠に当てはめることも全てに名付けることもできないんだよ。なのにそれを無理にしようとするから感情が破綻する。本当になんで?多分こればっかりは一生そんなことをする人の気持ち分からないと思う。これをしてる人も私の考えは分からないんだろうね。それでもいいさ。お互い様だよ。

 

つまり私が言いたいのは、担当という言葉に縛られてすぎて自分の本来の気持ちを見失ってる人はしょーもないということ。

好きだから付き合ってるのか付き合ってるから好きなのかも分からないまま1ヶ月記念日を祝う中学生カップルレベルでしょーもないね。

 

 

感情は自分ではどうしようもできないから感情である、そう思ってる。私たちはせっかく日々生きてるんだから、その上での変化を楽しんでこう。諸行無常。昔の人は賢いね。